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郊外について

高2の頃に気胸になり、4か月ほどしぼんだ肺と暮らしていたことがある(医者に行くのが面倒で)。

修学旅行でもしぼんだままだった。神戸の坂がすごく辛かったことを覚えている。結局肺は自力で元に戻らず、最後に手術をした。

 

今月の頭にまた気胸になった。今度は反対側。

気圧の関係で秋口から冬にかけて発症し易いらしい。入院したが手術はせずに済んだ。

 

発症した時一人で商店街を歩いていたのだが、絶望感が半分、懐かしい気持ち半分だった。

高校2年生の秋といえば当時の彼女ができて1年弱。幸せの絶頂だったのである。

僕の青春は大半が胸の痛みと共にあったのだ。

 

 

 

togetter.com

 

今日(僕の周りの)インターネットはこんな話題で盛り上がっていた。

地方都市と東京の文化資本格差。言いたいことなら死ぬほどある。

 

「行こうと思えばどこへでも行けるだろう」というコメントがあったが、それは全く本質を捉えていない。機会格差の問題は「常に手の届く範囲」にあるかどうかだ。そして、その腕の長さが凄く短い人々がいる。子供たちだ。

 

「小学校時代よく一人でバウスシアターに行っていた」という話を聞いて驚いたことがある。小学生だった当時映画を一人で見に行くという発想は逆立ちしても出てこなかった。映画は親に連れて行ってもらうものだった。

まざまざと蓄積された資本の差を見せつけられた瞬間だ。僕が脅迫観念的に映画を見、本を読むのはその時の経験に根差していることは間違いないだろう。未だに積み上げても積み上げても地すべりしていく感覚が拭いきれない。

 

 

 僕の住む町には図書館がない。数年前まではそれなりの本屋があったが、今はもう医療施設になってしまった。最寄りの本屋まで電車で二駅、図書館まで大人の足で歩いて30分だ。

 彼らが本を読みたいと思ったとき、そこに本はない。彼らの行動範囲には『家』しかないのだ。そんな環境で育ってきた彼らが将来様々な人に出会ったとき、何を思うか。否、何かを思えるだろうか。

 

 

親がしっかり意識をしていればこのような悲劇は防げるだろうか?

…半分当たりで、半分間違っている。

郊外まで足をのばし、新興住宅街を歩いたことがあるだろうか。もしそんな機会があったら、歩き始めて10分もすれば気づくことがある。「どの家の前にも高級車が止まっている」のだ。レクサス、ボルボメルセデス

 

 

この事実が何を示しているか?

彼らの親は金の使い道を知らないということだ。

郊外暮らしで浮いた金は高級車と旅行に消えていく。

 

 

ゼミで子供の貧困について研究している人たちがいる。貧乏な家庭の子供は塾に通うことができず、学力格差の再生産が続いているそうだ。ではそのような家庭に補助金を支給すれば格差は埋まっていくだろうか?

否である。適切に金を投資することができないそうだ。

そもそも本当に困窮している人々は補助制度までたどり着けないという。

 

 

話を戻そう。「文化」という概念は彼らの意識の外にあるのだ。

意識されない物は存在しないと同義である。

つまり、「そんな環境」で育った彼らは「そんな環境」を嘆くこともできない。

 

 

話の始まりが「文化資本」だったから図書館の話ばかりしているが、これは一般化できることは想像に難くないだろう。

僕が付き合っていた彼女は小さいころからずっと大きな公園のそばに住んでいた。街角の公園で遊んだことしかなかった僕は、彼女と出会って初めて公園に足を運ぶ楽しみを覚えた。それまで大きな公園など「意識の外」にあったのである。

 

このように、誰かと出会って後天的に資本を蓄積していくこともあるだろう。

しかしそれには多少の運が必要となる。その点に関して僕はかなりラッキーだったと思う。

 

 

願わくば、「彼」が箱の外に出ず、親を呪うことがないように。箱の外に出た「彼」が行きつく先はウージェーヌか、はたまたヴォートランか。そんなことを願う僕は何者だ。「彼」とは何者だ。

 

 

最近はよくこんな話題を食卓で家族に振ってみる。

すると両親は情けない顔をするのだ、「もう大学生なんだから分かってくれるだろう?」とでも言いたそうにして。

僕も20年後、子供にこんな顔をするのだろう。

 

 

12/30