無題

両親みたいに、素直な反応をしながらバラエティ番組を見てみたい。そんなことを思う自分は真顔でテレビを見ている訳じゃなくて、テレビに向かって愛想笑いをしている。

 

先日、日曜日の夜に渋谷で映画を見る機会があった。AIに恋をするおじさんの話で、途中からAIがモンスターボールの中にいるドクターマンハッタンに思えて仕方なくなってしまい集中できなかった。隣に座っていたカップルの、ファレル・ウィリアムスの帽子を被った男がひどく酔っぱらっているようで、いびきをかいて寝ていた。「良い映画だったね」と嘯く彼の言葉を聞く彼女の微妙な表情が素敵だった。

 

帰り道に109前のスクランブル交差点で信号待ちをしていたら、目の前で自転車がすごいスピードでタクシーに突っ込んだ。自転車に乗っていたのはいかにも渋谷にいそうな女の子で、「バカな女だなあ」とか「運ちゃんも災難だなあ」と思いながら眺めていた。と思ったらその瞬間、周りの人々が彼女に近づいて起こしたり、自転車を歩道に引き上げたりし始めた。

軽く衝撃を受けた。そんな発想は微塵も浮かんでこなかった。もっと衝撃だったのは、その周りの人々に合わせて自分が少し彼女に近づいたことだった。そのまま腕組みをして眺めていればよかったのだ。彼女を助けるつもりなんて微塵もなかったのに。

要するに、自分を持っていないのだ。

 

そんな、「世界とズレてしまう瞬間」を切り取るのが上手いのが穂村弘だ。歌人である彼は、そんな瞬間を切り取って巧みにエッセイに仕上げてしまう。我々が普段感覚として捉えている「ズレ」をピタリと言葉にして差し出してくる。又吉直樹(彼も非常に巧みなエッセイストだと思う)は世界からズレている人間を「悪魔の子」と表現したが、穂村弘は「世界音痴」と表現した。

『蚊がいる』を読んで、久しぶりにそんなエッセイを読んだと思った。高校2年生の頃、穂村弘のエッセイを夢中になって読んでいた。その頃はそんな自分がマイノリティだと思っていたが、彼が歌人やエッセイストとして名を馳せているところを見ると、そんなことないのだろう。誰だって多かれ少なかれ世界音痴なんだと思う。

 

2014/8/07