とんと分からない。仮に彼女が本当に私を愛しているとして、私が最早誰かを愛する体力を持ち合わせていなかったとして、しかし私の全身全霊をかけて彼女を幸せにしたならば、それはひとりの人間を幸せにしたということではないのか。それをやり抜きさえすれば。私は薄々気づいている、私が私自身を幸福にすることは出来そうもない。その私が、誰か1人以上の人間の人生に傷をつけることになるならば、この人生の意義は何なのか。

偽善と断罪することはあまりにも簡単だが、果たして本当にそうなのか分からない。これが偽善と無条件に切り捨てられるなら、自分の幸福のために他人を易々と傷つけていく、リアリストたちの論理が同情を得ているのはなぜか。いや私は彼らをむしろ深く愛している、彼らは喜びを見せてくれる、彼らを喜びで満たすことができたとき、私は確かに人生に意義を見出している。ならば私自身を幸福にする努力ができない私は、彼らではない誰かを傷つけることに怯えながら、自身がシステムと一致する日を夢見て生きるべきか。誰かを傷つけることに怯えながら、日々誰かを傷つけている。これに開き直る勇気を持つことができない。

 

私が映画を好むのは、映像という外形のみで何かを表現しようとする、自我をスコンと抜かした形式に強く惹かれているからだ。私が所謂邦画を嫌うのは、未だに自我を描けると信じている無邪気さに嫌気が差すからだ。しかし映画だけではない、私が私を曝け出したところで、誰も私と一致することは有り得ないのだ。それは私自身ずっと肝に銘じてきた事ではなかったか。しかしそれを分かって尚それを望む欲求、世界と、いやせめてこの人とだけでもひとつになりたいのだという衝動が愛なのではなかったか。今の私にはその体力が残っていない。